『ミッドサマー』はなぜ怖くないのに怖いのか

映画『ミッドサマー』観てきました。

私はミステリー、オカルト、ホラーは好きだがびっくりさせられるのとグロは無理という人間で、気になってはいたものの観に行くかずっと迷い続けていたのですが、あれこれ事前知識を仕入れて準備し、最悪途中退席しようと腹をくくって観てきました。

感想としては、まったく怖くなかった。

それと同時に、実際に観てみて、この作品を「怖い」という人と「怖くない」という人、「不快」という人と「爽快」と評する人、評価が真逆に分かれる理由もなんとなくわかりました。

作中の伏線やメタファー、ルーン文字についてはすでに超詳しく解析している先人がいるので置いておいて、私と同じように気になっているけど観るのが怖い人に向けて、『ミッドサマー』がなぜ怖くてなぜ怖くないのかについて書いてみます。

ネタバレゴリゴリありなのでご注意ください。

 

 

ストーリー(完全ネタバレ)

(普通に最初から最後まで書いたらめっちゃ長くなってしまった。映画鑑賞済みの方は飛ばしてください)

 

主人公はアメリカの女子大生・ダニー。精神に危うい妹がおり、そのせいでダニー自身も不安定で、抗不安剤などを服用している。恋人のクリスチャンにも依存気味だが、クリスチャンの友人達はそんなダニーをよく思っておらず、別れるよう勧めている。

そんな折、ダニーの妹が両親を巻き込んだ無理心中を決行。ダニーは家族を失い、失意のどん底に叩き落される。

友人たちと一緒にスウェーデンへ旅行する予定だったクリスチャンは、止むを得ずダニーを旅行に誘う。こうして、ダニーとクリスチャンと、その友人ペレ、ジョシュ、マークの5人は、ペレの故郷であるスウェーデンのホルガ村へと向かう。

 

ホルガ村は自然に囲まれた僻地の村。白夜を迎えていることもあり、予告映像でも見られる通り、一日中明るい青空と草木の緑が広がり、花が咲き乱れる景色がとにかく美しい。村民は一つの家族として過ごしており、大きな建物の中で一緒に寝起きしたりする。90年に一度の夏至の祝祭が行われる時期で、それが旅行の目的の一つでもあった。

 

ミッドサマーの独特の儀式に困惑しつつも、興味深くそれらを体験するダニー達。村人とともに崖の下に集められ、何が起こるのだろうと待っていると、村の老人2人が崖の上に現れる。目を凝らしている彼らの目の前で。

2人は相次いで、崖から身を投げた。

ドッ、という音。顔の肉が抉れ、断面を露わにする、老女だった死体。ダニー達は声も出ないが、村人達は即死した彼女に向けて賞賛の拍手を送る。

足が潰れたものの、死に切れなかったもう一人の方に杵を持った村人が近づき、その顔面に振り下ろす。

高齢の村人が新たに生まれる命のために自分の命を与える。輪廻転生の考えを持つホルガ村の、ミッドサマーの儀式のいち工程だったのです。

 

もうひと組の旅行者のサイモン&コニーの婚約者カップルは恐慌状態に陥り、村人を非難しながら出て行こうとする。ダニー達もショックを隠しきれないが、ペレに宥められて村に残ることに。

その後も、数日かけてミッドサマーの儀式は進んでいく。先の投身自殺のような出来事は起こらないものの、神聖な木に立小便をしたマーク、聖典を盗撮しようとしたジョシュが相次いで姿を消すなど、不穏さが常に立ち込め、外部から来て残っているのはダニーとクリスチャンのみになる。そのクリスチャンも村の娘・マヤに見初められ、隠毛入りの食事(!)を食べさせられたりする。

 

そんな中、メイクイーンを決めるダンスでダニーが優勝し、女王に。ダニーが女王の儀式をしている間、クリスチャンはお膳立てされたマヤとの性交に誘われる。このセックスシーンが、この異様な作品の中でも強烈。

事前に強力な精力剤のようなものを飲まされたクリスチャンは、半ば朦朧とした状態でとある建物に連れて行かれる。そこには、花に囲まれ全裸で横たわって待ち構えるマヤと、それを囲うように数名の女性が全裸で肩を組んで立っている。マヤに呼応するように声を上げる女性達に見守られながら腰を振り続けるクリスチャン。字面だけでもヤバい。でもここまでくると怖いを通り越して滑稽でウケる。

しかも、ダニーはその様子を目撃してしまう。

 

役目を終え、正気に戻ったクリスチャンは建物を飛び出し、鶏小屋に逃げ込む。だが、そこで見つけたのは、背中の皮を開かれ、オブジェのように花で飾られた死体。村から去ったはずのサイモンだった。

 

そしてクライマックス。メイクイーンとなったダニーの前で、村の長らしき男が語り出す。

ミッドサマーには9人の生贄が必要なこと。うち4人は外部の人間、もう4人は村人から、そして最後の一人はクイーンが決めるのだと。

外部の4人と村人の二人はすでに命を捧げている、というセリフで、マーク、ジョシュ、サイモン、コニーがすでに殺されていることがわかる。そして村人からは、投身自殺した二人に加え、自ら志願したという二人が進みでる。最後に、くじで選ばれた村人一人とクリスチャンが並べられ、ダニーはどちらかを選ぶよう迫られる。

 

ラストシーン、入ってはいけないと言われていた神殿の扉が開かれ、そこに並べられていく、死んだ生贄6人の皮を被った人形と、志願した二人、中央に置かれるのは、ダニーに選ばれ、「悪しき獣」の象徴として熊の皮を被せられたクリスチャン。

準備が整った神殿には火を放たれ、生きた生贄もろともすべてが焼かれていく。それを見たダニーは晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた――。

 

 

待って。長い。これで記事1本分くらいある。

ここからようやく、ミッドサマーが怖いのか怖くないのかについて考えます。

 

『ミッドサマー』はなぜ怖いのか

まず、普通に『ミッドサマー』の怖い部分について。

と言っても、映画を観た方やあらすじを読んだ方には説明するまでもなく、この作品には残酷なシーンも精神的にきついシーンがたくさんあります。

冒頭のダニーの家族の心中シーンもショッキングだし、投身自殺や背中を開かれたサイモン、クリスチャンたちが生きたまま焼かれるラストシーンはグロい。隠毛を食べさせたり異様なセックスシーンなどの歪んだ性的表現はキモい。こういうわかりやすい怖さ、グロさ、キモさを画的に見ていられないという人はその時点で無理だと思う。

この映画はそれに加え、音、映像テクニックでも存分に揺さぶってくる。

 

例えば、映像。

ダニー達が車でホルガ村に向かうシーン。車が走る様子を映していたカメラが、車の移動に合わせてだんだんと向きを変え、村に入るシーンでは天地逆になる(アリ・アスター監督の前作『ヘレディタリー』でもやってるらしい)。

他にも、ダニーが家のトイレに入るシーンで、ドアから切り替えて飛行機の機内のトイレになっていたりとか、クリスチャンが目を閉じて画面が暗くなり、目を開けるとダニー視点になっていたり。ワンカット風に見せながらシーンを区切る手法で、こちらが前提にしているものをひっくり返してくる。

その他にも、幻覚作用のある「マッシュルーム」やら怪しげなものを摂取するシーンがちょこちょこあるのだけど、その効能か画面が歪んだり、花が呼吸しているように動いたり、手足に草が生えてきたりと、今見ているものが現実なのか幻覚なのかわからなくさせて、「酔わせて」くる。

 

そして、音。

『ミッドサマー』では、BGMとして弦楽器が多用されている。それはダニーの不安や恐怖に共鳴するように鳴らされることが多く、慟哭のような嘆きのような、人の声ではないかと思うほどほど感情の乗った音となり、観ている側はダニーの不安定な感情に取り込まれていく。

楽器だけでなくうめき声も画面外からしょっちゅう流れ続けている。そして、それが結局誰の、なんの声なのか、現実に響いている音なのかさえ明かされないまま進行していく。

 

こんな風に、ストーリーや出来事以外の部分で、現実と妄想の間に放り込まれ、容赦なくシェイクされ、答えのない不快感や不安を抱え続けたまま観続ける羽目になる。

それが『ミッドサマー』。

これらの要素に入り込みすぎるタイプの人はトラウマになるし、『ミッドサマー』を怖い映画だと評するのではないかと思います。

 

『ミッドサマー』はなぜ怖くないのか

『ミッドサマー』は怖い、という話をした直後に手のひらを返して、今度は『ミッドサマー』は怖くない、という話をします。

 

怖くない理由の一つはカメラワーク。

ホラー映画のほとんどはショッキングな映像をいきなり!切り替えて!目の前に!見せることで恐怖を与えてくる。観てる人を驚かせて声を上げさせる。「動」の恐怖ですよね。

しかし、ミッドサマーではそれを絶対にしない。代わりにロングテイクが多用されています。

 

例えば、冒頭のダニーの家族の心中シーン。

シューシューという音とサイレンのような音を背後に、カメラは家の中をゆっくり進んでいき、目張りされた両親の寝室へ。消防士の手によってドアが開けられると、ベッドの上には目を閉じる夫婦の姿。けれど彼らが寝ているわけではないこと、シューシューいう音がガス漏れの音であることを、この一つのカットを観ているうちに観客自ら気づかされるわけです。

 

サイモンの死体を見つけるところもそう。クリスチャンの視線に合わせるようにゆっくりとカメラが動く。急に死体をバン!と出されることはない。なんなら早い段階でクリスチャンの死体は画面端に映り込んでいる。最初は何かわからない。でも、だんだんとそれがおぞましく飾られた死体であることに気づく。

 

「見せない」ことさえある。ダニーがクリスチャンとマヤのセックスを目撃する時も、映像になっているのは、壁の穴越しに目を見開くだけ。でも既にあの狂ったセックスシーンを観てる我々は「アレを見ちゃったのねダニー…」ということが否応なくわかってしまう。

 

驚かされて知らされるのではなく、自ら気づかされる。『ミッドサマー』は全編通してそういうつくりになっています。

最初に『ミッドサマー』は怖くない、と書きましたが、厳密に言えば「怖がらせてもくれない」が正しいかもしれない。いわゆるホラー映画のセオリーを使わないんです。

登っていくジェットコースターに乗せられて、もうすぐ落ちるぞという予感はあるのに、絶対に落とされない。その緊張感だけを絶え間なく与えられ続ける。

『ミッドサマー』がホラー映画ではない、「怖い」ではなく「嫌な気持ちになる」、と言われる大きな所以はここにあるのではないかと思います。

 

もう一つ、個人的に『ミッドサマー』が怖くないと思ったのは、「ルールが明瞭」ということです。

幽霊とか呪いとかゾンビとか、ホラー映画お得意の題材って、基本的に非科学的です。罰当たりなことをしたとかの「発生のきっかけ」みたいなものはあるかもしれないけど、そのメカニズムは不明。いつ、なぜ、なにに襲われたり殺されたりするかわからないまま、登場人物は逃げ惑うしかない。ルールがない。ゆえに理不尽です。

 

ところが、『ミッドサマー』ってすべてが明瞭なんですね。

例えば最初の投身自殺。もちろんグロいし痛そうだし「止めなよ」って感じなのですが、それはあくまで外から来たダニーたちの発想。ホルガ村住人からすれば、長い年月続いてきた当たり前の風習なわけです。なんなら、新しいものに自分の命を与えるという幸福でさえある。

 

マヤとクリスチャンの儀式めいたセックスも、村人の絶対数の少ないホルガ村においては、意図せぬ近親相姦の発生を避けるためにも、外部の血を定期的に入れて存続するためにも、村全体で性行為を管理するのは必要なことだったのだと思います(とはいえこの儀式のやり方は意味わかんなすぎるので監督のなんらかの癖を感じてしまうけれども。。。)。

 

外から来た人間が知らないだけで、ホルガ村にはずっと続く「ルール」があり、村民たちはすべてそれに則って行動しているだけなんです。文化圏がめちゃめちゃ遠い国の法律と同じことです。彼らの行為に、説明不能なオカルトや無秩序は一つもない。ただ私たちが理解できないだけ。

そして、そういう「異界」に自ら足を踏み入れてきたのはダニーたちのほう。

 

神聖な木に小便をかけたマークや聖殿に侵入したジョシュは、一見、罰として殺されたようですが、それすらも違うんじゃないかと私は思います。

なぜなら、「外部からの生贄」は「4人」必要だったから。

祝祭の時に村にいた外の人間は、ダニーを含めて6人。彼らのうちの3分の2が生贄になることは最初から決まっていたわけです。そして、最後の生贄となる選択肢の片割れとしてもう一人で、5人。ダニーがこの旅行に来たのはやむを得ずクリスチャンが誘ったからで、最初の頭数にはなかった。

そう考えると、ホルガ村へ来ることを決めた時点で、ほぼすべての人間は何らかの形で祝祭に組み込まれていたわけです。

 

4人、ないし5人の生贄が必要な儀式に5人の人間が用意され、手順通り生贄になった。

この話ってただそれだけなんです。めちゃめちゃ明瞭なんです。

不思議なことも、理不尽なこともないんです。

 

だから「怖い」とは言い難い。ただただ嫌な気持ちになるだけ。

そして、その嫌な気持ちも、映像に押し付けられたものではなく、観る人が想像し、勝手に気づく、という構造になっている。そういう他へのぶつけようのなさも、鑑賞後の不快感に結びついていくのではないでしょうか。

 

*

 

改めて、嫌な映画だな。

でも伏線やメタファーが無数にあって考察し甲斐があるし、文章では表現しきれない音&カメラワーク&映像美こそがこの作品の妙だと思うので、「これなら観られるかも」と思った人は映画館で体験してみてください。

無理だなと思った人はやめとこう。