劇場版『鬼滅の刃』は余すところなく煉獄杏寿郎の物語だったという話がしたい。

「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」、キメてきました。とりあえず2回。

評判に違わず最高だった本当に。映像もBGMも声も脚本も構成も。そして何よりも煉獄杏寿郎が、360度すべての角度から見て素晴らしかったです。

私は原作を結構前に読んでいたので、お話自体は全部知った上で観に行ったのですが、改めて「無限列車編」というエピソードがものすごくよくできているなと感じたので、その話をします。しますったらします。

 

※以降「無限列車編」のネタバレを含みます。

 

実を言うと、初めて漫画でこの「無限列車編」を読んだ時、私は「変な構成の話だな」と思いました。

というのが(ここからゴリゴリネタバレしていきますが)、「無限列車編」というエピソードって大きく2部構成になってるんですね。1部が、無限列車で下弦の壱・魘夢と戦う話。2部が、魘夢を倒した後、猗窩座が出てきて煉獄さんと一騎打ちになる話。

で、思い切って言ってしまうと、猗窩座パートと魘夢パートってほとんど関連がないんですよ。魘夢がヘルプとして猗窩座を呼んだとか、魘夢を倒すと猗窩座が出てくる手はずになってるとかそういうのじゃない。魘夢を倒してひと段落した時に、なんか猗窩座が突然出てくる。魘夢と猗窩座は全然関係ない。

そして鬼殺隊のほうもそう。確かに炭治郎は無限列車でのバトルの途中に深手を負うのですが、登場した直後以外、猗窩座は煉獄さん以外アウトオブ眼中だし、煉獄さんと猗窩座の戦いを見た伊之助が「自分が入っても足手まといにしかならねえ」ということを言っているとおり、炭治郎も伊之助も二人は基本見ているだけで戦いそのものに影響しない(善逸は寝ているし)。

煉獄さんも、無限列車での戦いの傷を負った状態で、とかはなく、万全の状態で猗窩座と対峙している(現実で考えれば無限列車での戦いでの疲労とかがあるはずですが、そんなことは作中では一切描かれてないのでないものと考えていいと思う)。

これが例えば、魘夢とのバトルで煉獄さんが負傷してたとか、もしくは炭治郎とかかまぼこ隊の誰かが怪我をしていて、それをかばいながら猗窩座と戦うとかなら、魘夢戦が猗窩座との戦いに影響を及ぼすことになるのですが、それもない。

細かいことを無視して言ってしまうと、煉獄vs猗窩座戦って、「無限列車編」からまるまる切り離してもっと後ろに持ってきても成立するはずの話なんですよ。そうすれば、強力な柱(そして超人気キャラ)である煉獄さんを延命させて長く登場させることもできた。

だから最初に漫画で読んだ時、私は、「なんで猗窩座とのバトルをここに入れたんだろう?」と思ったんです。いちエピソードにまとめるにしては配分がいびつだなと。

それが、今回劇場版を観てようやく腑に落ちました。この「無限列車編」、「煉獄杏寿郎の物語」として読むとまじでまじでよくできている。

 

原作の時系列から話をすると、「無限列車編」の前に「柱合会議」というのがあって、そこで初めて全員の柱がお披露目されます。ただ、ここでは本当に「お披露目」という感じで、「どいつもこいつもビジュアルがやべえ」という以外、柱それぞれのキャラクターはほとんどわからない。で、その柱合会議の後の初めて大きなバトルが「無限列車編」です。炭治郎達も、煉獄さんとまともに話をするのは列車に乗り込んでからが初めて。つまり、「無限列車編」は、読者も炭治郎も「初めまして煉獄さん」というところから始まるのです。

 

「無限列車編」の前半、魘夢の血鬼術で全員眠らされ、そこで鬼殺隊が見ている夢が描かれるのですが、そこで煉獄さんのバックグラウンドが明かされます。

煉獄さんが代々炎柱の家系であること。元炎柱の父親は腑抜けてしまっており、母は病気で亡くなっていて、幼い弟を煉獄さん一人で守っていること。という、なかなか過酷な煉獄家の家庭環境と、それでも責任感が強く前向きな煉獄杏寿郎という人物像が示されます。 

そこから、先に夢から覚めた炭治郎は孤軍奮闘。何度も眠らせてくる魘夢に対し、夢の中で自害し続けては目を覚まして戦う(この設定は無限列車の中でも特に凄まじいなと思う)。首を落として勝った! と思うけれども、魘夢は自分の肉体を列車全体に拡張? しており、乗客200名すべてが人質になっている状況に。8両の列車全部を守り切れない! と思った時に満を持して現れるのが煉獄さん。巨大な生き物の内臓みたいになった列車の中を切り裂いて現れた煉獄さんは、5両は自分が、残りは善逸と禰󠄀豆子が守るから伊之助と魘夢の首を切れと伝えてくる。これより前のシーンで、炭治郎が「自分では2両を守るのが限界」と思っているので、涼しい顔で5両引き受ける煉獄さんの凄さをわかりやすく教えてくれる。

そこから、炭治郎&伊之助vs魘夢のバトルもまじで死闘。本当に、魘夢を倒すまででちゃんとお話として成立するくらい、見応えのある戦いが描かれています。が、魘夢を倒しても「無限列車編」は終わらない。むしろ、そこからが本当のクライマックス。

 

魘夢を倒して列車が停まった後、怪我を負った炭治郎の前にピンピンした煉獄さんが現れます。無限列車でのダメージは全然感じられない。でも戦いは終わった。よかった~。

と思ったら出てくるのが上弦の参・猗窩座。最初に書いた通り、脈絡なく出てくる。なんなんだてめえは。

そこから始まる煉獄さんと猗窩座の戦い。魘夢が「眠らせる」という策を弄してたのに対して、完全に肉弾戦のガチンコ勝負なので、より迫力がすごい。戦いのレベルも、伊之助が「入れねえ」と言っていた通り、炭治郎達では目で追うことすらできない。

鬼なのでバンバン再生する猗窩座に対し、煉獄さんは目を潰され骨を砕かれ、厳しい状況に。でもそこで、母からの「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です」という言葉を思い出した煉獄さんは「俺は俺の責務を全うする!」と(ここまじかっこいい)再び刀を構え、首を落とす寸前まで猗窩座を追い詰める。しかし、朝日が昇ってくるのを見て猗窩座が退却し、腹に風穴をあけられた煉獄さんは、自分はもう死ぬからと、炭治郎達に最後のメッセージを伝える。最期を迎える直前、煉獄さんは視界に映った母の幻影に「俺はちゃんとやれましたか」と問いかけ、「立派にやりましたよ」という答えをもらい、微笑んで絶命する。

いやだー!死なないでよお!

 

と、これが劇場版の全容なのですが、おわかりだろうか? 煉獄さん、「無限列車編」で出てきて「無限列車編」で死んでしまうのです。こんなにも強烈なキャラクターなのに、『鬼滅の刃』における煉獄さんの登場シーンはここにほぼ集約されている。炭治郎達との関わりも、列車に乗ってから夜明けまでのたった数時間なのですよ。映画を観ていてこのことを思い出して驚愕しました。たったこれしか出てなかったんだっけ!?

でも、「無限列車編」には、大げさに言ってしまうと、煉獄杏寿郎の「全部」が入っているんです。冒頭で登場し、人となりと「父親に認められていない」という葛藤が表現される。魘夢戦では柱としての圧倒的な強さ、炭治郎達との格の違いを見せつける。そのうえで、魘夢よりずっと格上の猗窩座と、炭治郎達には手も出せないような戦いを繰り広げ、猗窩座の退却まで追い込む。そして最後には、母に認めてもらうことで、多分ずっと抱えていた葛藤から解放される。

これ、まじで、「全部」じゃないですか? 1人のキャラクターを描く上での「全て」が入ってませんか? しかも、死してなお、観る者に「圧倒的に強い人」という印象を与えてる。すごい。

これがもし、最初に私が思ったように猗窩座戦を後ろに切り離してたとしたら、煉獄さんの印象はもっと薄まってたと思うのですよ。前の方にあったエピソードなんて読者は忘れちゃうから。だから、猗窩座戦はここに、魘夢戦のすぐ後になければならなかった。

そして、猗窩座と100%の力でガチンコで戦わせるために、煉獄さんは魘夢戦で無傷でないといけなかったし、炭治郎達も足手まといになってはいけなかった。そうじゃないと、「怪我してなければ勝てた」という憶測を永遠に引き摺ってしまうから。やりきって終わる、という結末にならないから。

 

ああ、これは「煉獄杏寿郎の物語」なんだな、と観終わった時に思いました。

そして思い出しました。漫画を読んだ時、「変な構成だな」と思うと同時に、「でもこれってめちゃくちゃ映画向きの話だな」と思ったことを。

 

本当にいい映画だった。また観に行きます。