君の中には神様がいる

これまで音楽好きとして生きてきた私にとって、ライブやパフォーマンスにおける主役はあくまでも歌であり、音楽だった。パフォーマンスの中にダンスが組み込まれていたとしても、それはあくまでも音楽を盛り上げるための演出であり、ダンスそれ自体がメインになるなんてことは、私の世界ではありえなかった。

美しいメロディ、胸に染み入る歌声、心を掬い上げるような歌詞。そういうもので胸がいっぱいになったり、涙が出そうになったことは何度もある。

でも、ダンスを見てそんな感情になるなんて、思ってもみなかった。

 

*

 

存在は知っていた。一発で目につくピンクの髪で、オタクで、元気な人。私はテレビを見ないので、それ以上のパーソナリティはほとんど知らなかったけれど、とにかく存在だけは知っていた。

そんな状態で、ふとしたきっかけでとあるダンスプラクティス動画を見た。グループの中の誰が目当てだったとかそういうこともない。ただ、流行りに流行っている彼らが一体どういうパフォーマンスをするのか、ちゃんと見たことがないなと思っただけで、何の気なしだった。それなのに、ダンスが始まると、私の目は吸い寄せられたようにその人にしかいかなくなった。その人が佐久間くんだった。

 

跳ぶ時は重力がないかのように、重たく見せたい時は岩のように静かに、確かに止まっている一瞬があるのに素速い動きでも指先まで精密。しなやかな時は風に揺れる柳のようでいて、どれだけ激しく動いてもぶれない重心。

うまい人のダンスを見ると、人間はここまで自由に自分の身体を操ることができるのか、という、畏怖に近い感嘆を抱く。私が佐久間くんのダンスを見ていて感じたのもそういう感情だった。踊っている時の佐久間くんは、自分の身体をほとんど完璧にコントロールしているように見えた。いや、身体どころではない。衣装の裾のひらめき、髪の一筋の揺れさえ、彼の思うがままに見えた。

 

ダンスに関して完全に素人である私は、それまでダンスの上手さの上限は「振付を完璧に正確に踊れること」なのだと思っていた。でも、佐久間くんのダンスはその先があることを教えてくれた。

それは、例えば顎のラインが美しく見える顔の角度であったり、伏し目がちの艶のある表情だったり、関節がないかのような動きの滑らかさだったり、どんなにダイナミックに動いても優雅さを失わない指先やつま先だったりした。佐久間くんのダンスを見ていて初めて、私は「正確な振付」の中には無限の余白が存在し、そこをいかに表現するかがダンスの魅力と個性を生むのだと知った。そして、そういう意味で佐久間くんのダンスは突出していた。一番端にいても、後列にいても、目まぐるしく変わるフォーメーションの中で動き回っていても、佐久間くんから目が離せなかった。

 

佐久間くんのダンスは「憑依型」と評されることがあるそうだ。だが、「自分の肉体に神や霊的なものを降ろすこと」を憑依と呼ぶのなら、私は真逆だと思った。夏目漱石の『夢十夜』の中で、仏師の運慶が、木で仏像を作っているのではなく、木の中に埋まっているものを掘り出しているだけだと語る場面があるそうだが、おそらくその感覚に近い。彼はどこかよそにいる神様を降ろしているのではない。彼の中に元々あった神聖なものが、踊っているそのいっとき、露わになっているのだと。

「神様」や「神聖」など言葉選びが胡散臭ければ、人間の迷いや雑念などの余計なものがそぎ落とされた、限りなくピュアでシンプルな状態、と言い換えてもいい。とにかく、踊っている時の佐久間くんは、ピュアで、パーフェクトで、解放されていて、魂そのままの状態に近いように見えた。

佐久間くんのダンスを見ながら、私は感動とともに思った。音楽が鳴っているほんの数分間だけ、人はここまで神様に近づくことができるのだ。

 

*

 

誰かの持つ能力を、軽々しく「神」とか「天才」という言葉で片づけたくはない。この世で才能と呼ばれるものの正体が、想像を絶するほどの努力や、プロ意識や、かけてきた時間の長さや、意地や情熱であることを知っているからだ。

佐久間大介くんという人のことを私はまだよく知らないけれど、彼のダンスだって、そういうものに由来しているものなのだろうこともわかっている。門外漢の私には技術的なことはわからないから、世の中にはもっとうまい人がいくらでもいると言われたらそうなのかもしれない。

それでも、やっぱり君のダンスに目を奪われる。素晴らしいものを見たと感嘆する。こんな感情を、ダンスから与えられるなんて思わなかった。

その賛辞に代えてこう言いたい。

踊っている君の中には神様がいる。

私にはそう見える。

 

*

 

Party! Party! Party! (dance ver.)

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切られたのは私の方だったのだーーアニメ『ホリミヤ』の視聴をやめる

中学生の頃、『堀さんと宮村君』というWeb漫画をずっと読んでいた。
投稿頻度が高くて、毎日サイトを覗いては更新がないか楽しみにしていた。

行動や感情が「ふりきらない」ところがリアルで、繊細だった。

私は『堀さんと宮村君』――通称「ホリミヤ」が大好きだったのだ。

 

作画を別に据え、『ホリミヤ』というタイトルで漫画&コミックス化されたこの作品は、2021年1月からついにアニメ放送が開始した。アニメ化を知って調べたティザームービーの絵は美しく、キャスティングもこれ以上ないほどに(個人的に)完璧だった。私は間違いなく、アニメの開始を楽しみにしていた。

1,2話をまとめて見た。「おや?」と思うことがちらほらあった。それでも「ホリミヤ」が好きなので、見続けようと思った。

そして今日3話までアニメを見て、もう見るのを辞めようと思った。

 

 

第1話。しょっぱな、先生が堀をまじまじと見て「貧乳を気にするな」と言った。

おや、と思う。原作にこういうシーンがあったか忘れてしまったけど、この令和の時代に、先生が生徒にそんなことを言う場面をわざわざ入れる必要があったのだろうか。でもやっぱり絵はきれいだ。気にせず見よう、と思う。

石川から告白された堀。その日の夕方、宮村と話すシーンで、透からの告白なんてどうでもいいと斬り捨てる。翌日、様子がおかしい透を見たゆきに「なんかあったのかな?」と訊かれるが、しらない。と答える。はぐらかしているのではなくて、本当にわからない感じで。

え、堀、デリカシーなさすぎない?

 

石川への対応へのモヤモヤは堀だけに留まらない。石川がまだ堀のことを好きであると知っているのに、宮村は堀の家に毎日のように通い、堀家のリビングで「堀さん人差し指だけ少し反ってるね」なんて話をしながら二人で恋人つなぎをしたりする。それなのに、石川に対しては「堀さんは俺のことなんてなんとも思ってないよ」と言う。

え?お前、透が堀のこと好きなのを知ってるよな?なんなら応援するみたいな姿勢見せてるよな?宮村、これどういう気持ちなの?

堀と宮村がどんどん無理になってきた。

 

『堀さんと宮村君』はもともと4コマ漫画だった。だから起承転結の展開がはやいし、キャラクターの行動も突飛でも成り立っていた。

堀みたいな、いわゆるツンデレ暴力ヒロインも流行っていた。

貧乳をいじるようなネタも普通だった。

中学生の私だって、そんなこと全然気にせず目を輝かせて読んでいた。

でもさ、それは『堀さんと宮村君』の本編が絶賛連載されていた時の話なんだよ。

それ、15年前も前の話なんだよ。

今、それを同じテンションでやるの?

 

ホリミヤ』が雑に作られているとは思わない。むしろ、作画の美しさや凝った演出を見るとこだわっていると思う。

でも、それならどうしてもっと、15年の時代の変化を汲んであげられなかったのかと思ってしまう。『ポプテピ』や『おそ松さん』みたいに割り切って短編を繋げるような作りではなくストーリーものとして仕上げるなら、どうして4コマの行間をもっと丁寧に埋めてくれなかったのかと思う。

 

モヤモヤしすぎてTwitterで検索したら、「きゅんきゅんする」「ときめく」と好意的な感想ばかりだった。みんな気にならないのか? これを普通に見られるのか?

納得いかな過ぎて5ちゃんねるのスレまで検索してしまった。スレでもおおむね好意的だった。少なくとも、私が気にしていることを指摘している人はほとんどいなかった。それでもやっと、「最初の貧乳ネタで切った(見るのをやめた)」という意見を発見した。だけどその書き込みには「そんなの誰も気にしてねーよ。切られたのはお前」というレスがついていた。

それを見て、なんだか腑に落ちてしまった。

そのレスをつけた人が正しいとは言わない(匿名だからと言ってそういう言葉遣いを平気でできてしまう奴は何にせよ嫌いだし)。でも、「切られたのはお前」というのを見て、そうかもしれない、と思ってしまった。

 

冒頭に貧乳をいじる教師ネタがあるのは、制作サイドがそれを大きな問題と考えなかったからだ。そして事実、ネット上でそれを指摘する人はほとんどいない。みんな気にしていないということだ。

堀や宮村に対してデリカシーがないと言っている人もほとんどいなかった。「石川かわいそう」という意見はちらほらあったけど、それはだいたい「石川かわいそうw」のテンションであり、本当にそれを嫌だと思っている人はほとんど見つけられなかった。

制作サイドが「問題ない」と判断しており、視聴者の大半は実際気にしていない。それはつまり、気になってしまう私の方が、『ホリミヤ』のターゲットではなかったということだ。

そして、それと同時に、私もまた、「ホリミヤ」から離れてしまったのかもしれない、とも思った。


15年経ったのは私も同じだ。その間に、エンタメにもアニメにも詳しくなってしまったし、世の中のいろんな立場や意見があることも知った。

これは差別じゃないのか、これはいじめじゃないのか、これは偏見じゃないのか。こっちのキャラは傷つけられてもいいのか。こんな態度でどうしてこのキャラはこのキャラのことが好きでい続けられるのか。そういう細かいことが、中学生の時よりずっとずっと気になって、目につくようになってしまった。

 

アニメ『ホリミヤ』への違和感がどうしてもぬぐえない。でも、今の私が、Web漫画の『堀さんと宮村君』をもう一度読んだらどう感じるのだろう。あの時と同じように手放しで楽しめるのだろうか。当時はよくて、今は許せないことがたくさんあるんじゃないか。

だって、アニメのストーリーで気になった部分は、記憶違いでなければ原作にもあったから。堀が石川に対して冷たいのも、暴力的なのも、原作通りだったから。

私はそれでも「ホリミヤ」を好きと言えるのだろうか。

 

 

ホリミヤ」が大好きだった。これからも好きでいたい。だから、続きを見るのはやめておく。

劇場版『鬼滅の刃』は余すところなく煉獄杏寿郎の物語だったという話がしたい。

「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」、キメてきました。とりあえず2回。

評判に違わず最高だった本当に。映像もBGMも声も脚本も構成も。そして何よりも煉獄杏寿郎が、360度すべての角度から見て素晴らしかったです。

私は原作を結構前に読んでいたので、お話自体は全部知った上で観に行ったのですが、改めて「無限列車編」というエピソードがものすごくよくできているなと感じたので、その話をします。しますったらします。

 

※以降「無限列車編」のネタバレを含みます。

 

実を言うと、初めて漫画でこの「無限列車編」を読んだ時、私は「変な構成の話だな」と思いました。

というのが(ここからゴリゴリネタバレしていきますが)、「無限列車編」というエピソードって大きく2部構成になってるんですね。1部が、無限列車で下弦の壱・魘夢と戦う話。2部が、魘夢を倒した後、猗窩座が出てきて煉獄さんと一騎打ちになる話。

で、思い切って言ってしまうと、猗窩座パートと魘夢パートってほとんど関連がないんですよ。魘夢がヘルプとして猗窩座を呼んだとか、魘夢を倒すと猗窩座が出てくる手はずになってるとかそういうのじゃない。魘夢を倒してひと段落した時に、なんか猗窩座が突然出てくる。魘夢と猗窩座は全然関係ない。

そして鬼殺隊のほうもそう。確かに炭治郎は無限列車でのバトルの途中に深手を負うのですが、登場した直後以外、猗窩座は煉獄さん以外アウトオブ眼中だし、煉獄さんと猗窩座の戦いを見た伊之助が「自分が入っても足手まといにしかならねえ」ということを言っているとおり、炭治郎も伊之助も二人は基本見ているだけで戦いそのものに影響しない(善逸は寝ているし)。

煉獄さんも、無限列車での戦いの傷を負った状態で、とかはなく、万全の状態で猗窩座と対峙している(現実で考えれば無限列車での戦いでの疲労とかがあるはずですが、そんなことは作中では一切描かれてないのでないものと考えていいと思う)。

これが例えば、魘夢とのバトルで煉獄さんが負傷してたとか、もしくは炭治郎とかかまぼこ隊の誰かが怪我をしていて、それをかばいながら猗窩座と戦うとかなら、魘夢戦が猗窩座との戦いに影響を及ぼすことになるのですが、それもない。

細かいことを無視して言ってしまうと、煉獄vs猗窩座戦って、「無限列車編」からまるまる切り離してもっと後ろに持ってきても成立するはずの話なんですよ。そうすれば、強力な柱(そして超人気キャラ)である煉獄さんを延命させて長く登場させることもできた。

だから最初に漫画で読んだ時、私は、「なんで猗窩座とのバトルをここに入れたんだろう?」と思ったんです。いちエピソードにまとめるにしては配分がいびつだなと。

それが、今回劇場版を観てようやく腑に落ちました。この「無限列車編」、「煉獄杏寿郎の物語」として読むとまじでまじでよくできている。

 

原作の時系列から話をすると、「無限列車編」の前に「柱合会議」というのがあって、そこで初めて全員の柱がお披露目されます。ただ、ここでは本当に「お披露目」という感じで、「どいつもこいつもビジュアルがやべえ」という以外、柱それぞれのキャラクターはほとんどわからない。で、その柱合会議の後の初めて大きなバトルが「無限列車編」です。炭治郎達も、煉獄さんとまともに話をするのは列車に乗り込んでからが初めて。つまり、「無限列車編」は、読者も炭治郎も「初めまして煉獄さん」というところから始まるのです。

 

「無限列車編」の前半、魘夢の血鬼術で全員眠らされ、そこで鬼殺隊が見ている夢が描かれるのですが、そこで煉獄さんのバックグラウンドが明かされます。

煉獄さんが代々炎柱の家系であること。元炎柱の父親は腑抜けてしまっており、母は病気で亡くなっていて、幼い弟を煉獄さん一人で守っていること。という、なかなか過酷な煉獄家の家庭環境と、それでも責任感が強く前向きな煉獄杏寿郎という人物像が示されます。 

そこから、先に夢から覚めた炭治郎は孤軍奮闘。何度も眠らせてくる魘夢に対し、夢の中で自害し続けては目を覚まして戦う(この設定は無限列車の中でも特に凄まじいなと思う)。首を落として勝った! と思うけれども、魘夢は自分の肉体を列車全体に拡張? しており、乗客200名すべてが人質になっている状況に。8両の列車全部を守り切れない! と思った時に満を持して現れるのが煉獄さん。巨大な生き物の内臓みたいになった列車の中を切り裂いて現れた煉獄さんは、5両は自分が、残りは善逸と禰󠄀豆子が守るから伊之助と魘夢の首を切れと伝えてくる。これより前のシーンで、炭治郎が「自分では2両を守るのが限界」と思っているので、涼しい顔で5両引き受ける煉獄さんの凄さをわかりやすく教えてくれる。

そこから、炭治郎&伊之助vs魘夢のバトルもまじで死闘。本当に、魘夢を倒すまででちゃんとお話として成立するくらい、見応えのある戦いが描かれています。が、魘夢を倒しても「無限列車編」は終わらない。むしろ、そこからが本当のクライマックス。

 

魘夢を倒して列車が停まった後、怪我を負った炭治郎の前にピンピンした煉獄さんが現れます。無限列車でのダメージは全然感じられない。でも戦いは終わった。よかった~。

と思ったら出てくるのが上弦の参・猗窩座。最初に書いた通り、脈絡なく出てくる。なんなんだてめえは。

そこから始まる煉獄さんと猗窩座の戦い。魘夢が「眠らせる」という策を弄してたのに対して、完全に肉弾戦のガチンコ勝負なので、より迫力がすごい。戦いのレベルも、伊之助が「入れねえ」と言っていた通り、炭治郎達では目で追うことすらできない。

鬼なのでバンバン再生する猗窩座に対し、煉獄さんは目を潰され骨を砕かれ、厳しい状況に。でもそこで、母からの「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です」という言葉を思い出した煉獄さんは「俺は俺の責務を全うする!」と(ここまじかっこいい)再び刀を構え、首を落とす寸前まで猗窩座を追い詰める。しかし、朝日が昇ってくるのを見て猗窩座が退却し、腹に風穴をあけられた煉獄さんは、自分はもう死ぬからと、炭治郎達に最後のメッセージを伝える。最期を迎える直前、煉獄さんは視界に映った母の幻影に「俺はちゃんとやれましたか」と問いかけ、「立派にやりましたよ」という答えをもらい、微笑んで絶命する。

いやだー!死なないでよお!

 

と、これが劇場版の全容なのですが、おわかりだろうか? 煉獄さん、「無限列車編」で出てきて「無限列車編」で死んでしまうのです。こんなにも強烈なキャラクターなのに、『鬼滅の刃』における煉獄さんの登場シーンはここにほぼ集約されている。炭治郎達との関わりも、列車に乗ってから夜明けまでのたった数時間なのですよ。映画を観ていてこのことを思い出して驚愕しました。たったこれしか出てなかったんだっけ!?

でも、「無限列車編」には、大げさに言ってしまうと、煉獄杏寿郎の「全部」が入っているんです。冒頭で登場し、人となりと「父親に認められていない」という葛藤が表現される。魘夢戦では柱としての圧倒的な強さ、炭治郎達との格の違いを見せつける。そのうえで、魘夢よりずっと格上の猗窩座と、炭治郎達には手も出せないような戦いを繰り広げ、猗窩座の退却まで追い込む。そして最後には、母に認めてもらうことで、多分ずっと抱えていた葛藤から解放される。

これ、まじで、「全部」じゃないですか? 1人のキャラクターを描く上での「全て」が入ってませんか? しかも、死してなお、観る者に「圧倒的に強い人」という印象を与えてる。すごい。

これがもし、最初に私が思ったように猗窩座戦を後ろに切り離してたとしたら、煉獄さんの印象はもっと薄まってたと思うのですよ。前の方にあったエピソードなんて読者は忘れちゃうから。だから、猗窩座戦はここに、魘夢戦のすぐ後になければならなかった。

そして、猗窩座と100%の力でガチンコで戦わせるために、煉獄さんは魘夢戦で無傷でないといけなかったし、炭治郎達も足手まといになってはいけなかった。そうじゃないと、「怪我してなければ勝てた」という憶測を永遠に引き摺ってしまうから。やりきって終わる、という結末にならないから。

 

ああ、これは「煉獄杏寿郎の物語」なんだな、と観終わった時に思いました。

そして思い出しました。漫画を読んだ時、「変な構成だな」と思うと同時に、「でもこれってめちゃくちゃ映画向きの話だな」と思ったことを。

 

本当にいい映画だった。また観に行きます。

今さら『宇宙よりも遠い場所』を見てめぐっちゃんにボロ泣きさせられた話

2018年に放送されたアニメ『宇宙よりも遠い場所』――通称「よりもい」。

女子高生4人が、それぞれの目的を胸に抱き、南極へ行く物語だ。テレビ放送当時、たまにタイミングが合うと見ていて、歯抜けにしか見ていないながらも良作だなと思っていた。

ネットフリックスのラインナップに追加されていたので、改めて1話から見始めたのだけれど、もー泣いた。各話ごとにしっかりと泣かされた。

 

南極で帰らぬ人となった母への踏ん切りのつかない想いを抱え続ける子や、民間団体として南極へ向かう観測隊の想いとか、泣かせポイントはたくさんあるのだけれども、私に一番刺さったのは「めぐっちゃん」だった。

 

「めぐっちゃん」というのは、ヒロインの1人・キマリの幼馴染の友人だ。

おっちょこちょいでお調子者のキマリを助けてくれる、クールなしっかり者。何かあればキマリはめぐっちゃんに相談して、めぐっちゃんは「しょうがないな」という顔をしながら手を貸してくれる、そんな関係性。

「めぐっちゃん」のキャラ造形がまずとてもいい。メガネ・三つ編み・センター分けというザ・優等生みたいなビジュアルなのに、口調は「~だろ」「~したのか?」ととてもサバけている。こんなおさげメガネ見たことない。見たことないけど、別に乱暴者とかじゃなくてもこのくらいの喋り方をする女子高生は普通にいる。リアルだ。とてもいい。

 

アニメの世界の女子高生って、バカっぽさとか百合一歩手前の距離感の異常な近さとか強調されすぎた「女子」で描かれることが多い。正直「この時代にまだこんな女子像を見せられなきゃならないのかよ」と思うことが多々ある。

現実の女というものを知らねー奴が作っているのか、時代遅れなことはわかっていても視聴者層が追いついていないから古臭い記号的な「女子」を使うしかないのか、なんにせよ、だいぶうんざりしている。

 

正直、キマリに関しては「この子はここまでバカっぽくしなきゃいけなかったのか?」という疑問があるのだけど、それを除くと「よりもい」のキャラクターはそういう意味でみんなリアルだ。媚びたところや誇張されたところがほとんどない。納得して見られる。

その中でもやっぱり特に、前半にしか登場しない「めぐっちゃん」が良い。

 

青春したいと思いながら、ぐずぐずして一歩を踏み出せずにいたキマリ。「南極へ行く」と言い続けて周りから馬鹿にされている同級生の報瀬と出会い、感化されて、自分も南極へ行きたいと思うようになる。

報瀬ちゃんとあんな話をした、あんな場所へ行った。犬みたいに、新しい発見も旅への不安も逐一報告するキマリに、めぐっちゃんはいつもクールだ。でも、冷静な顔をしているからわかりにくけど、だんだん「おや?」と感じるポイントが出てくる。サポートしてくれているようでいて、めぐっちゃんがキマリの南極行きにあまり肯定的じゃないことが透けて見えてくるのだ。

その民間団体、資金不足って言われてるよとか、うまくいかなかったら後悔しそうだから無理しすぎないでねとか。南極への憧れを語るキマリにかけるその言葉は、心配しているようでいて、人の憧れを少しだけ貶めるようないやらしさがある。報瀬のことをいつまでの「南極」という蔑称で呼ぶのも、そう。

 

めぐっちゃんは、絶対に表立って反対したりはしない。感情的にもならない。

あくまでも自分は冷静で、正しくて、あなたのことが心配なのだ、という顔をして、少し上からの立場を崩さない。決して。

 

楽しそうな人、何かを始めようとしている人、軌道に乗りそうな人に釘を刺したくなること。足を引っ張ってくる奴。そういう時、その人は必ず、めぐっちゃんと同じく「私は正しい」という顔をする。自分が嫌だからとか、自分がこうしてほしいんだとか、それが自分の感情由来であることを絶対に認めない。「心配だから」とか「あなたのことを思って」とかいう仮面をかぶる。

 

だけども、敢えて断言したい。誰かが何かを「好き」とか「やりたい」とポジティブな感情で言ったことにネガティブな意見をつけるのは、「100%」邪魔だ。余計なお世話だ。

なぜなら、それを言われた時、自分の大事なものや、前向きな気持ちを穢された気持ちになるからだ。「あなたのため」と言いながら、そのセリフは相手の、もっと大切にしなければいけないはずのものを踏みつけている。

 

南極計画と新しい人間関係に夢中のキマリは気づいていないけれど、画面のこちら側から見ていていると、めぐっちゃんの、底なし沼から手を伸ばすようなほの暗さがだんだんと際立ってきて、2人の会話を見ているのが嫌になってくる。

 

だけど、こういうことは、ある。普通に、ある。

おっちょこちょいなキマリを助ける立場にいためぐっちゃんは、その関係性が崩れるのを怖れていた。頼られることで自分を確立していたのに、キマリに別の友達ができて、強くなって、自分を頼らなくなっていくのが怖かった。

 

「私が何も持っていないから、あなたにも何も持たせたくなかった」

 

出発の朝、キマリの前に現れためぐっちゃんはいつもの冷静な仮面を脱ぎ捨てて、泣きながら言う。

キマリと話すめぐっちゃんは、嫌な奴だった。心配するふりをして足を引っ張ろうとする姿は醜かった。キマリがめぐっちゃんから言われたような言葉を、私も言われたことがあって、嫌な気持ちになった。

 

でも、私はめぐっちゃんのことを嫌いになれなかった。だってめぐっちゃんの気持ちもわかるから。「置いていかないでよ」と思う気持ちがわかるから。

そして、めぐっちゃんが、ただ嫌な奴のはずがないと思うから。だって、本当にただの嫌な奴だったら、悪い奴だったら、2人はこんなにずっと一緒にいないと思うから。キマリがめぐっちゃんに対して屈託なく笑ったりしないと思うから。

全部が嘘だったわけじゃないと思う。2人が仲良しだったのは本当だと思う。

人間関係の感情の純度が100%なんてことはない。仲が良いから好意しかない、なんてあり得ない。仲が良くても、仲が良いからこそ、こういうことが起きる。

だから人と関わることは怖いし、リアルだし、それを物語の前半で、しかも作品の主題でないところでぶち込んでくる「よりもい」がすごすぎる。

 

めぐっちゃんは、たしかにちょっと嫌な奴だった。

でも、このくらいの「嫌なところ」を持ち合わせていない奴なんか一人もいないと思う。だとしたら、「私は正しい」という殻を破って、「あなたに何も持たせたくなかった」と本音をぶちまけためぐっちゃんが、私は嫌いになれない。というか、好きだ。

嫌な部分全くなしに生きていくのは不可能だ。でも、本当の分かれ目は、嫌な奴になってしまった後にある。嫌な奴のままでいるのか、そこから挽回できるか。そんな時には、めぐっちゃんでありたいと思う。

 

 

『ロボ・サピエンス前史』―人間が見ることのない未来ロマンス

『ロボ・サピエンス前史』を読んだので感想を書きます。

ネタバレありです。

 

*

 

舞台は少し先の未来の地球。

人型ロボットが日常的なものになり、同性婚やロボットと人間の結婚も認められている。そういう世界で、何人かのロボットにスポットを当てて、オムニバス形式で展開していく。

例えば、超長期型耐用型ロボット「時間航行士(タイムノート)」として開発された3人。

2人は地球型惑星探査のために宇宙へ向かう、クロエとトビー。地球に帰還するのはおよそ6,000年後の予定。

もう1人は核燃料最終処分場・オンカロの管理者を担う恩田カロ子。その任務期間は、放射能が無害化するまでのなんと25万年。

ロボットたちは、人間には到底果たせない使命を背負い、それぞれの任地へと赴いていく。

 

*

 

読んでいる間、基本的に「怖」と思っていた。

だって、25万年て。長すぎ。

手塚治虫の『火の鳥』の「未来編」を読んだ時も同種の怖さを感じた。

ざっくり言うと、人類が滅亡した世界で永遠の命を与えられた男が1人きりで生き続けるという話なのだが、これだけで怖い。

この恐怖は、「人は死んだらどうなるの?」とか、「宇宙の果てはどうなってるの?」という疑問を突き詰めていった時に感じる恐怖と似ている。果てしなすぎるものは怖い。果てしないものの前で自分という「個」があまりにも無力であること、「個」という存在自体がほとんど意味を持たないことを実感する。

 

*

 

任務開始当初、オンカロを管理するカロ子のところには人間が定期的にチェックに訪れていたが、100年を過ぎた頃、姿を現さなくなる。

そこからさらに600年後、現れたのは人間ではなくロボットだった。

彼らから、3度の戦争があったこと、地球の人口が3億になり、うち人間は3000万人しかいないことを知らされる。人間たちは外に出てこなくなり、世界の最高評議会は全員ロボットが仕切っている。

彼らは言う。

”わたしたちはあなたがこれ以上オンカロの管理人を務めることには人道上の問題があると判断しました”

逆転するロボットと人間の人口比率。ロボット達による自治
ロボットが、人間の道具ではなく一つの種になっていく。

それと同時に、繁栄を極めた人間が衰退し、地球という星の主導権がロボットへとうつっていく。かつての恐竜がそうだったみたいに。

 

さらに300年後。カロ子のもとにやってきたロボット達は、サルやウサギの顔をしていた。

”人間のかたちをしていないのですね”

”そうする理由がなくなったのです”

 主であった人間を模すのをやめたロボット達。人類から完全に独立したことを象徴している。

彼らの未来予測によれば、人類に未来はない。全ロボット達は1年後に地球を離脱する。カロ子も任務が終わったら追ってくるように、と告げられる。

 

*

 

一方、宇宙に旅立ったクロエとトビーの任務は、小隕石が宇宙船に衝突したことにより頓挫。第一のミッションを果たせなかった2人は、帰還不能になった場合に与えられていたミッションにうつる。それは、彼らの制作者の博士から告げられた「幸せになりなさい」という言葉だった。

ミッションを果たすため、2人はデータの中で夫婦となり、子供を創り出し、平和な野山で暮らす。

 

……いや、やることがあまりにも人間すぎんか?

「幸せになれ」という願い自体が感傷的だし、それに対するアンサーが夫婦になって子供を作って田舎で穏やかに暮らすって、価値観が人間的すぎる。ロボットの幸せが人間と同じだというのは思い上がりなのでは?

とけっこうモヤモヤした。

 

ちょっと意地悪な見方だけど、「幸せになる」というのも彼らの中でミッションとしての認識であり、「幸せ」の定義も人間の定義に合わせただけなんじゃないだろうか。

”「幸せ」とは?”

”「幸せ」のデータを検索して再構築しよう”

っていう会話もあるし。つまり「2人にとっての幸せ」のではなく、「博士の思う幸せを2人がかなえてあげた」に過ぎないんじゃないのかな。

2人が子供を見ながら「幸せだ」と言い合うシーンもあるので、作品の意図は多分違うんだろうけど、私は「ロボットの幸せが人間に測れるわけがない」という結論のほうがしっくりくる。

 

*

 

そこからさらにさらに果てしない時が経ち、放射能が基準値を下回り、カロ子のミッションは終わりを告げる。

はっきりと描写はされないが、オンカロの外にもう人類は存在しない。

始まりは、人間の安全な生活のための任務だった。けれど、既に人間がいない今、彼女の任務は誰のためのものだったんだろう。なんのための25万年だったのだろう。

100年程度の寿命しか持たない人間はついそうやって悲壮を感じたくなるけれど、ロボットのカロ子にそういう感傷は見られない。

彼女は粛々と、仲間が残したメッセージ通り、仲間の後を追っていく。

クロエ、トビーと同じ博士に作られた彼女にもまた、「幸せになりなさい」という言葉が贈られている。それを思い出しながら、人間から与えらえたミッションから解放された彼女は、データとなって仲間のもとへ向かっていく。

 

*

 

カロ子達ロボットは新たな歴史を築くのだろう。もはや地球という星にも縛られることもなく。

それは、ロボットの前の種である人間が見ることのない時代だ。

彼らの「幸福」の形が、人間のそれとは違うといいなあと私は思う。

人間には見ることのできない場所で、人間の想像を超えて、人間の期待を裏切って広がってほしいと思う。

だって彼らが人間の次の種なのだとしたら、人間以上の可能性を持っていてくれなくてはおもしろくない。

 

『ロボ・サピエンス前史』島田虎之介

『ミッドサマー』はなぜ怖くないのに怖いのか

映画『ミッドサマー』観てきました。

私はミステリー、オカルト、ホラーは好きだがびっくりさせられるのとグロは無理という人間で、気になってはいたものの観に行くかずっと迷い続けていたのですが、あれこれ事前知識を仕入れて準備し、最悪途中退席しようと腹をくくって観てきました。

感想としては、まったく怖くなかった。

それと同時に、実際に観てみて、この作品を「怖い」という人と「怖くない」という人、「不快」という人と「爽快」と評する人、評価が真逆に分かれる理由もなんとなくわかりました。

作中の伏線やメタファー、ルーン文字についてはすでに超詳しく解析している先人がいるので置いておいて、私と同じように気になっているけど観るのが怖い人に向けて、『ミッドサマー』がなぜ怖くてなぜ怖くないのかについて書いてみます。

ネタバレゴリゴリありなのでご注意ください。

 

 

ストーリー(完全ネタバレ)

(普通に最初から最後まで書いたらめっちゃ長くなってしまった。映画鑑賞済みの方は飛ばしてください)

 

主人公はアメリカの女子大生・ダニー。精神に危うい妹がおり、そのせいでダニー自身も不安定で、抗不安剤などを服用している。恋人のクリスチャンにも依存気味だが、クリスチャンの友人達はそんなダニーをよく思っておらず、別れるよう勧めている。

そんな折、ダニーの妹が両親を巻き込んだ無理心中を決行。ダニーは家族を失い、失意のどん底に叩き落される。

友人たちと一緒にスウェーデンへ旅行する予定だったクリスチャンは、止むを得ずダニーを旅行に誘う。こうして、ダニーとクリスチャンと、その友人ペレ、ジョシュ、マークの5人は、ペレの故郷であるスウェーデンのホルガ村へと向かう。

 

ホルガ村は自然に囲まれた僻地の村。白夜を迎えていることもあり、予告映像でも見られる通り、一日中明るい青空と草木の緑が広がり、花が咲き乱れる景色がとにかく美しい。村民は一つの家族として過ごしており、大きな建物の中で一緒に寝起きしたりする。90年に一度の夏至の祝祭が行われる時期で、それが旅行の目的の一つでもあった。

 

ミッドサマーの独特の儀式に困惑しつつも、興味深くそれらを体験するダニー達。村人とともに崖の下に集められ、何が起こるのだろうと待っていると、村の老人2人が崖の上に現れる。目を凝らしている彼らの目の前で。

2人は相次いで、崖から身を投げた。

ドッ、という音。顔の肉が抉れ、断面を露わにする、老女だった死体。ダニー達は声も出ないが、村人達は即死した彼女に向けて賞賛の拍手を送る。

足が潰れたものの、死に切れなかったもう一人の方に杵を持った村人が近づき、その顔面に振り下ろす。

高齢の村人が新たに生まれる命のために自分の命を与える。輪廻転生の考えを持つホルガ村の、ミッドサマーの儀式のいち工程だったのです。

 

もうひと組の旅行者のサイモン&コニーの婚約者カップルは恐慌状態に陥り、村人を非難しながら出て行こうとする。ダニー達もショックを隠しきれないが、ペレに宥められて村に残ることに。

その後も、数日かけてミッドサマーの儀式は進んでいく。先の投身自殺のような出来事は起こらないものの、神聖な木に立小便をしたマーク、聖典を盗撮しようとしたジョシュが相次いで姿を消すなど、不穏さが常に立ち込め、外部から来て残っているのはダニーとクリスチャンのみになる。そのクリスチャンも村の娘・マヤに見初められ、隠毛入りの食事(!)を食べさせられたりする。

 

そんな中、メイクイーンを決めるダンスでダニーが優勝し、女王に。ダニーが女王の儀式をしている間、クリスチャンはお膳立てされたマヤとの性交に誘われる。このセックスシーンが、この異様な作品の中でも強烈。

事前に強力な精力剤のようなものを飲まされたクリスチャンは、半ば朦朧とした状態でとある建物に連れて行かれる。そこには、花に囲まれ全裸で横たわって待ち構えるマヤと、それを囲うように数名の女性が全裸で肩を組んで立っている。マヤに呼応するように声を上げる女性達に見守られながら腰を振り続けるクリスチャン。字面だけでもヤバい。でもここまでくると怖いを通り越して滑稽でウケる。

しかも、ダニーはその様子を目撃してしまう。

 

役目を終え、正気に戻ったクリスチャンは建物を飛び出し、鶏小屋に逃げ込む。だが、そこで見つけたのは、背中の皮を開かれ、オブジェのように花で飾られた死体。村から去ったはずのサイモンだった。

 

そしてクライマックス。メイクイーンとなったダニーの前で、村の長らしき男が語り出す。

ミッドサマーには9人の生贄が必要なこと。うち4人は外部の人間、もう4人は村人から、そして最後の一人はクイーンが決めるのだと。

外部の4人と村人の二人はすでに命を捧げている、というセリフで、マーク、ジョシュ、サイモン、コニーがすでに殺されていることがわかる。そして村人からは、投身自殺した二人に加え、自ら志願したという二人が進みでる。最後に、くじで選ばれた村人一人とクリスチャンが並べられ、ダニーはどちらかを選ぶよう迫られる。

 

ラストシーン、入ってはいけないと言われていた神殿の扉が開かれ、そこに並べられていく、死んだ生贄6人の皮を被った人形と、志願した二人、中央に置かれるのは、ダニーに選ばれ、「悪しき獣」の象徴として熊の皮を被せられたクリスチャン。

準備が整った神殿には火を放たれ、生きた生贄もろともすべてが焼かれていく。それを見たダニーは晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた――。

 

 

待って。長い。これで記事1本分くらいある。

ここからようやく、ミッドサマーが怖いのか怖くないのかについて考えます。

 

『ミッドサマー』はなぜ怖いのか

まず、普通に『ミッドサマー』の怖い部分について。

と言っても、映画を観た方やあらすじを読んだ方には説明するまでもなく、この作品には残酷なシーンも精神的にきついシーンがたくさんあります。

冒頭のダニーの家族の心中シーンもショッキングだし、投身自殺や背中を開かれたサイモン、クリスチャンたちが生きたまま焼かれるラストシーンはグロい。隠毛を食べさせたり異様なセックスシーンなどの歪んだ性的表現はキモい。こういうわかりやすい怖さ、グロさ、キモさを画的に見ていられないという人はその時点で無理だと思う。

この映画はそれに加え、音、映像テクニックでも存分に揺さぶってくる。

 

例えば、映像。

ダニー達が車でホルガ村に向かうシーン。車が走る様子を映していたカメラが、車の移動に合わせてだんだんと向きを変え、村に入るシーンでは天地逆になる(アリ・アスター監督の前作『ヘレディタリー』でもやってるらしい)。

他にも、ダニーが家のトイレに入るシーンで、ドアから切り替えて飛行機の機内のトイレになっていたりとか、クリスチャンが目を閉じて画面が暗くなり、目を開けるとダニー視点になっていたり。ワンカット風に見せながらシーンを区切る手法で、こちらが前提にしているものをひっくり返してくる。

その他にも、幻覚作用のある「マッシュルーム」やら怪しげなものを摂取するシーンがちょこちょこあるのだけど、その効能か画面が歪んだり、花が呼吸しているように動いたり、手足に草が生えてきたりと、今見ているものが現実なのか幻覚なのかわからなくさせて、「酔わせて」くる。

 

そして、音。

『ミッドサマー』では、BGMとして弦楽器が多用されている。それはダニーの不安や恐怖に共鳴するように鳴らされることが多く、慟哭のような嘆きのような、人の声ではないかと思うほどほど感情の乗った音となり、観ている側はダニーの不安定な感情に取り込まれていく。

楽器だけでなくうめき声も画面外からしょっちゅう流れ続けている。そして、それが結局誰の、なんの声なのか、現実に響いている音なのかさえ明かされないまま進行していく。

 

こんな風に、ストーリーや出来事以外の部分で、現実と妄想の間に放り込まれ、容赦なくシェイクされ、答えのない不快感や不安を抱え続けたまま観続ける羽目になる。

それが『ミッドサマー』。

これらの要素に入り込みすぎるタイプの人はトラウマになるし、『ミッドサマー』を怖い映画だと評するのではないかと思います。

 

『ミッドサマー』はなぜ怖くないのか

『ミッドサマー』は怖い、という話をした直後に手のひらを返して、今度は『ミッドサマー』は怖くない、という話をします。

 

怖くない理由の一つはカメラワーク。

ホラー映画のほとんどはショッキングな映像をいきなり!切り替えて!目の前に!見せることで恐怖を与えてくる。観てる人を驚かせて声を上げさせる。「動」の恐怖ですよね。

しかし、ミッドサマーではそれを絶対にしない。代わりにロングテイクが多用されています。

 

例えば、冒頭のダニーの家族の心中シーン。

シューシューという音とサイレンのような音を背後に、カメラは家の中をゆっくり進んでいき、目張りされた両親の寝室へ。消防士の手によってドアが開けられると、ベッドの上には目を閉じる夫婦の姿。けれど彼らが寝ているわけではないこと、シューシューいう音がガス漏れの音であることを、この一つのカットを観ているうちに観客自ら気づかされるわけです。

 

サイモンの死体を見つけるところもそう。クリスチャンの視線に合わせるようにゆっくりとカメラが動く。急に死体をバン!と出されることはない。なんなら早い段階でクリスチャンの死体は画面端に映り込んでいる。最初は何かわからない。でも、だんだんとそれがおぞましく飾られた死体であることに気づく。

 

「見せない」ことさえある。ダニーがクリスチャンとマヤのセックスを目撃する時も、映像になっているのは、壁の穴越しに目を見開くだけ。でも既にあの狂ったセックスシーンを観てる我々は「アレを見ちゃったのねダニー…」ということが否応なくわかってしまう。

 

驚かされて知らされるのではなく、自ら気づかされる。『ミッドサマー』は全編通してそういうつくりになっています。

最初に『ミッドサマー』は怖くない、と書きましたが、厳密に言えば「怖がらせてもくれない」が正しいかもしれない。いわゆるホラー映画のセオリーを使わないんです。

登っていくジェットコースターに乗せられて、もうすぐ落ちるぞという予感はあるのに、絶対に落とされない。その緊張感だけを絶え間なく与えられ続ける。

『ミッドサマー』がホラー映画ではない、「怖い」ではなく「嫌な気持ちになる」、と言われる大きな所以はここにあるのではないかと思います。

 

もう一つ、個人的に『ミッドサマー』が怖くないと思ったのは、「ルールが明瞭」ということです。

幽霊とか呪いとかゾンビとか、ホラー映画お得意の題材って、基本的に非科学的です。罰当たりなことをしたとかの「発生のきっかけ」みたいなものはあるかもしれないけど、そのメカニズムは不明。いつ、なぜ、なにに襲われたり殺されたりするかわからないまま、登場人物は逃げ惑うしかない。ルールがない。ゆえに理不尽です。

 

ところが、『ミッドサマー』ってすべてが明瞭なんですね。

例えば最初の投身自殺。もちろんグロいし痛そうだし「止めなよ」って感じなのですが、それはあくまで外から来たダニーたちの発想。ホルガ村住人からすれば、長い年月続いてきた当たり前の風習なわけです。なんなら、新しいものに自分の命を与えるという幸福でさえある。

 

マヤとクリスチャンの儀式めいたセックスも、村人の絶対数の少ないホルガ村においては、意図せぬ近親相姦の発生を避けるためにも、外部の血を定期的に入れて存続するためにも、村全体で性行為を管理するのは必要なことだったのだと思います(とはいえこの儀式のやり方は意味わかんなすぎるので監督のなんらかの癖を感じてしまうけれども。。。)。

 

外から来た人間が知らないだけで、ホルガ村にはずっと続く「ルール」があり、村民たちはすべてそれに則って行動しているだけなんです。文化圏がめちゃめちゃ遠い国の法律と同じことです。彼らの行為に、説明不能なオカルトや無秩序は一つもない。ただ私たちが理解できないだけ。

そして、そういう「異界」に自ら足を踏み入れてきたのはダニーたちのほう。

 

神聖な木に小便をかけたマークや聖殿に侵入したジョシュは、一見、罰として殺されたようですが、それすらも違うんじゃないかと私は思います。

なぜなら、「外部からの生贄」は「4人」必要だったから。

祝祭の時に村にいた外の人間は、ダニーを含めて6人。彼らのうちの3分の2が生贄になることは最初から決まっていたわけです。そして、最後の生贄となる選択肢の片割れとしてもう一人で、5人。ダニーがこの旅行に来たのはやむを得ずクリスチャンが誘ったからで、最初の頭数にはなかった。

そう考えると、ホルガ村へ来ることを決めた時点で、ほぼすべての人間は何らかの形で祝祭に組み込まれていたわけです。

 

4人、ないし5人の生贄が必要な儀式に5人の人間が用意され、手順通り生贄になった。

この話ってただそれだけなんです。めちゃめちゃ明瞭なんです。

不思議なことも、理不尽なこともないんです。

 

だから「怖い」とは言い難い。ただただ嫌な気持ちになるだけ。

そして、その嫌な気持ちも、映像に押し付けられたものではなく、観る人が想像し、勝手に気づく、という構造になっている。そういう他へのぶつけようのなさも、鑑賞後の不快感に結びついていくのではないでしょうか。

 

*

 

改めて、嫌な映画だな。

でも伏線やメタファーが無数にあって考察し甲斐があるし、文章では表現しきれない音&カメラワーク&映像美こそがこの作品の妙だと思うので、「これなら観られるかも」と思った人は映画館で体験してみてください。

無理だなと思った人はやめとこう。

 

 

その情熱を誰も止めるな―『映像研に手を出すな!』

各所で評判の高い『映像研には手を出すな!』遅ればせながら見始めたのだけど、評判に違わず素晴らしかった。最新話まで追いつけていないのだけど、ここが良かった〜〜って言いたいことがありまくるので書く。

*

物語の主役担うのは、この3人。

小さい頃の夢は冒険家、設定や機械の構造が大好きで、オリジナル世界のイメージボードを書き溜めている浅草みどり。

徹底したリアリスト、金儲けのチャンスは決して逃さない、口八丁で全てを丸め込む頭脳派ヤクザの金森さやか

カリスマ読モで家も金持ち、社交的で愛想もいい。だがその実態はオタク気質のアニメーター志望、水崎ツバメ。

3人が出会う舞台は、芝浜高校。校舎は増改築を繰り返した結果、ダンジョンのごとき複雑怪奇な建築物へと発展しており、その造形はレトロフューチャーのような趣があって、未来都市や秘密基地を連想させて、それだけでもう楽しい。

*

「芝浜高校を舞台にアニメを作りたい」という野望を持つも、人見知りで行動には移せずにいた浅草みどりは、一人で設定画を描き続ける日々を送っていた。そんなある日、同学年の水崎ツバメがアニメーター志望であることが発覚し、二人は急激に仲良くなる。

古ぼけたコインランドリーで、浅草の設定画の上に水崎の描いたキャラクターが、陽の光に透かされて重なった瞬間。まだ動いてもいないのに、そこにアニメーションの命が宿るのを見た気がした。

 

そこから、水崎の描いたメカを起点に、浅草と水崎のイマジネーションが奔流のようになだれ、溢れていく。

「アームとかウィンチつけたいっす!」「こんな感じで昆虫っぽいのはどう?」「これだと着陸できないっすね」「尻尾もつけてトンボみたくしたい!」

ラフ画で表現されたのイメージの世界の中で、二人の想像力は無限かつ自由に広がって、小さなメカを羽ばたくトンボ型飛行機へと作り上げていく。

最初の起動がうまくいかないトンボを、操縦席に浅草、外から金森、水崎が押していく。3人の力が合わさることで、今何かが起ころうとしている。そんな、革命前夜のような予感。

機体が走り出し、浅草が叫ぶ。

「二人とも乗り込めー!」 

追っ手を逃れ、トンボは縦横無尽に飛び回る。高いビルに囲まれた閉鎖空間の隙間をくぐり抜けた時。

ラフ画だった世界は完成されたアニメーションへと一変し、3人は、そこに広がる宇宙――“最強の世界”を目の当たりにする。

頭の中にしかなかった想像の世界が、現実になる瞬間。

「すごい絵が見えた気がしたんだけど」

現実のコインランドリーで水崎がつぶやく。その「体験」に、私も3人と一緒に呆然として頷くしかない。

 

そうして、浅草みどりを監督、水崎ツバメをアニメーター、そしてそこに金の匂いを察知した金森さやかがプロデューサーを買って出て、3人のアニメ制作計画が動き出す。

*

「好き」という気持ちが生み出すエネルギーは無尽蔵だ。チートと言ってもいいくらい。「映像研」を見ているとそれを思い知らされる。

例えば、誰に見せるわけでもないのに描き続けてきた、浅草の200冊近くにものぼる探検日記。人見知りなのにアニメの話になった途端饒舌になり、タイプの真逆な水崎と意気投合していく様子。通学時間まで使って画を一人で描き続ける水崎。どれも楽なことではない。

でも、二人はやりきってしまう。なぜって、それが好きで、楽しくて仕方ないからだ。「なぜこんなこと」なんて思うより先に、手が動くからだ。

誰かのためでも、何かのためでもない。ただ好きで、ただやりたい、という純粋な欲望は、外野に揺らがされることがない。質量保存の法則を丸無視した、最強のエネルギーだ。

 

そうして作り上げた初制作アニメーションを、予算審議委員会で生徒会役員を前に披露する。

セーラー服にマスクの少女が戦車と戦う、ストーリーらしいストーリーのない、たった3分程度の無声アニメーション。映像が流れ出した途端、会場にいる人たちはその世界に呑み込まれていく。戦車が荒々しく通り過ぎ、少女が疾走し、爆発するその風を、振動を感じ取る。

生徒会役員が呆然としながら呟く。

「こいつら予算なくてもやるタイプじゃん」

「こいつらに予算渡したらどうなるんだろうな」 

「好き」のエンジンが爆発させた力は、嵐のように周囲をねじ伏せていく。

超厳格な生徒会から、予算を華麗にもぎ取ったように。

*

浅草みどりと水崎ツバメのことばかり書いてきたけど、その実、この作品で一番重要なのは、そして私が一番好きなのは金森さやかである。彼女の存在がなければ、この作品はもっとありきたりな部活ものだったと思う。

金森はアニメ自体にはそこまでの関心はなく、活動に参加したのも「カリスマ読モの水崎が作るアニメなら金になる」という理由。金森は作画には関わらないし、浅草と水崎の暴走しがちなアイデア出しにも口を挟まない。

プロデューサーである金森の役割は、外部折衝、資金繰り、スケジュール管理など、「制作」以外のほぼ全て。夢を膨らませるのが浅草と水崎の役目だとすれば、「現実」の部分を担っているのが金森だ。

 

「夢を見る」というのは、ある意味では楽だ。自分の夢を掲げてそれを追いかけていくのは、苦しい時はあるとしても、基本的には楽しいものだ。応援もしてもらいやすいし、こだわりの追求も美談と捉えられる。

けれど、夢を膨らませているだけでは空は飛べない。誰かがきちんと企画を立てて、予算を取ってきて、場所を確保して飛行の許可を取って、現実という足場を組んでくれなければ夢は夢物語のままだ。そして、そういう現実の作業は、いつだって裏方だし、時には嫌われ役だ。その役割を金森は率先して引き受け、なおかつ十二分にこなしてみせる。

 

作画の大幅な進行遅れに対し、カラーではなく白黒アニメへの変更、動画ソフトの使用など、現実的な案を次々提案。それでもこだわりたくてぐずぐず言う制作二人を、金森は一刀両断する。

「間に合わないと意味がないんです!」

「プレゼンさえ通れば予算が手に入るんです。そしたら作りたいものを好きなだけ作ってください」

 

夢を、頭の中で見るだけなら簡単だ。

自分の好きなところ、こだわりたい部分に時間をかけるのは楽しい。でも、それでは現実で飛行機を飛ばす日はこない。現実を見据え、折り合いをつけることができなければ、夢は永遠に自分の頭の中にあるだけだ。

夢を現実に引っ張り出すために、言いづらいことを躊躇なく言ってのけるプロデューサー金森、とにかくかっこいい。賞賛の拍手を送りたい。

*

作品を彩る音楽もドンピシャにハマっている。

OPは女性ラップデュオchelmicoの“Easy Breezy”。聴くものを翻弄するようなカオスでパワフルなサウンドが、無尽蔵に湧き出る映像研メンバーのアイデアとエネルギーを思わせる。

リリックも《誰に頼まれたわけでもないのに/止まらね〜筆》だの《ただ好きなもんは好き 外野お黙り》だの《見たもん聞いたもん それ全部血になる/飛べる 飛べ》だの、隅から隅まで最強に最高〜〜アゲ!って感じで、聴いてるだけで無敵、周りの意見なんかカンケーねえ、なんでもできるぜ、という気持ちになる。

 

一方、EDの神様、僕は気づいてしまった(バンド名です)の“名前のない青”は打って変わってど真ん中の青春ソングという感じ。各話の終わりに駆り立てるようなギターのイントロが流れ出すとそれだけでもうたまらない気分になる。

《想像が現実を凌駕して/重く垂れた雲が散った/その景色を遺せたなら》

《千年後の知らない誰かの生を/根底から覆すような/鮮やかな色》

高校の部活、という限定された時間。きっと一瞬で過ぎるのその間に、どこまで行けるのか。

「青」は清廉の色、そして未完成の色だ。だからこそ無限の可能性を持つ。駆け抜けるようなメロディが爽快だ。

*

『映像研』を見ていて気持ちいいのは、プロフェッショナルを描いているからなのだと思う。

彼女たちは高校生で、映像研究会は同好会だけれど、その姿勢はプロと遜色ない。監督、アニメーター、そしてプロデューサー、それぞれが自分の役割を理解し、果たしている。時にぶつかり合うことがあっても、その主張は、自分の役割を全うするためのものだ。そこには仕事に対するプライドがあるし、相手に対するリスペクトもある。

そんな衝突の先にはより良い解が待っているとわかるから、やりあっているシーンさえ、むしろ創作の最前線を垣間見ることができてワクワクする

 

そんなプロフェッショナルを創るのは、やっぱりきっと「好き」のエネルギーなんだろう。こんなものを創りたい、妥協したくない、見る人に楽しんでほしい。細部に至るこだわりが、プロ意識へとつながっていく。

「その情熱をだれも止めるな」なんてタイトルにしてみたけど、もとより止められるはずがない。

だって「好き」という情熱は、説明不能で無尽蔵なチートエネルギーだから。