君の中には神様がいる

これまで音楽好きとして生きてきた私にとって、ライブやパフォーマンスにおける主役はあくまでも歌であり、音楽だった。パフォーマンスの中にダンスが組み込まれていたとしても、それはあくまでも音楽を盛り上げるための演出であり、ダンスそれ自体がメインになるなんてことは、私の世界ではありえなかった。

美しいメロディ、胸に染み入る歌声、心を掬い上げるような歌詞。そういうもので胸がいっぱいになったり、涙が出そうになったことは何度もある。

でも、ダンスを見てそんな感情になるなんて、思ってもみなかった。

 

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存在は知っていた。一発で目につくピンクの髪で、オタクで、元気な人。私はテレビを見ないので、それ以上のパーソナリティはほとんど知らなかったけれど、とにかく存在だけは知っていた。

そんな状態で、ふとしたきっかけでとあるダンスプラクティス動画を見た。グループの中の誰が目当てだったとかそういうこともない。ただ、流行りに流行っている彼らが一体どういうパフォーマンスをするのか、ちゃんと見たことがないなと思っただけで、何の気なしだった。それなのに、ダンスが始まると、私の目は吸い寄せられたようにその人にしかいかなくなった。その人が佐久間くんだった。

 

跳ぶ時は重力がないかのように、重たく見せたい時は岩のように静かに、確かに止まっている一瞬があるのに素速い動きでも指先まで精密。しなやかな時は風に揺れる柳のようでいて、どれだけ激しく動いてもぶれない重心。

うまい人のダンスを見ると、人間はここまで自由に自分の身体を操ることができるのか、という、畏怖に近い感嘆を抱く。私が佐久間くんのダンスを見ていて感じたのもそういう感情だった。踊っている時の佐久間くんは、自分の身体をほとんど完璧にコントロールしているように見えた。いや、身体どころではない。衣装の裾のひらめき、髪の一筋の揺れさえ、彼の思うがままに見えた。

 

ダンスに関して完全に素人である私は、それまでダンスの上手さの上限は「振付を完璧に正確に踊れること」なのだと思っていた。でも、佐久間くんのダンスはその先があることを教えてくれた。

それは、例えば顎のラインが美しく見える顔の角度であったり、伏し目がちの艶のある表情だったり、関節がないかのような動きの滑らかさだったり、どんなにダイナミックに動いても優雅さを失わない指先やつま先だったりした。佐久間くんのダンスを見ていて初めて、私は「正確な振付」の中には無限の余白が存在し、そこをいかに表現するかがダンスの魅力と個性を生むのだと知った。そして、そういう意味で佐久間くんのダンスは突出していた。一番端にいても、後列にいても、目まぐるしく変わるフォーメーションの中で動き回っていても、佐久間くんから目が離せなかった。

 

佐久間くんのダンスは「憑依型」と評されることがあるそうだ。だが、「自分の肉体に神や霊的なものを降ろすこと」を憑依と呼ぶのなら、私は真逆だと思った。夏目漱石の『夢十夜』の中で、仏師の運慶が、木で仏像を作っているのではなく、木の中に埋まっているものを掘り出しているだけだと語る場面があるそうだが、おそらくその感覚に近い。彼はどこかよそにいる神様を降ろしているのではない。彼の中に元々あった神聖なものが、踊っているそのいっとき、露わになっているのだと。

「神様」や「神聖」など言葉選びが胡散臭ければ、人間の迷いや雑念などの余計なものがそぎ落とされた、限りなくピュアでシンプルな状態、と言い換えてもいい。とにかく、踊っている時の佐久間くんは、ピュアで、パーフェクトで、解放されていて、魂そのままの状態に近いように見えた。

佐久間くんのダンスを見ながら、私は感動とともに思った。音楽が鳴っているほんの数分間だけ、人はここまで神様に近づくことができるのだ。

 

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誰かの持つ能力を、軽々しく「神」とか「天才」という言葉で片づけたくはない。この世で才能と呼ばれるものの正体が、想像を絶するほどの努力や、プロ意識や、かけてきた時間の長さや、意地や情熱であることを知っているからだ。

佐久間大介くんという人のことを私はまだよく知らないけれど、彼のダンスだって、そういうものに由来しているものなのだろうこともわかっている。門外漢の私には技術的なことはわからないから、世の中にはもっとうまい人がいくらでもいると言われたらそうなのかもしれない。

それでも、やっぱり君のダンスに目を奪われる。素晴らしいものを見たと感嘆する。こんな感情を、ダンスから与えられるなんて思わなかった。

その賛辞に代えてこう言いたい。

踊っている君の中には神様がいる。

私にはそう見える。

 

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Party! Party! Party! (dance ver.)

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